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徳川家康
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    好学の士
    家康の愛読書は、『論語』、『中庸』、『史記』、『漢書』、『六韜』、『三略』、『貞観政要』、『延喜式』、『吾妻鑑』などの書物だと伝えられている。
    家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。
    また源氏物語の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。
    手相
    「知能線」と「感情線」が1体となっている手相(=ますかけ線)を持つ人が100人に2~3人ほどいる。
    家康もマスカケ線だったと伝わる(左手の手相が栃木県・日光山輪王寺宝物殿に保管されている)。
    因みにマスカケ線の持ち主は、国家を支配する強運の持ち主が多く、現代でもあらゆる分野のトップ達に多く見られる。
    秀吉からの問い
    「徳川の宝はなにか?」との秀吉の問いに対し、「五百騎の三河武士である」と返答している。
    悪筆?
    『永茗夜話』には渡辺幸庵の話として「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。
    ただし、直筆文章とされる書状などを見ると読めないような悪筆ではないため、当時流行の筆捌きでないと言う意味かもしれない。
    吝嗇(りんしょく)
    家康の吝嗇(=けち)にまつわる逸話は多い。
    手洗いから出て懐紙で手を拭こうとしたら、懐紙が風に飛ばされたので庭まで追っていって取り返した(それを見て笑う家来に対し、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言い返している)。
    新しい服をあまり買わず、洗濯して使っていたため、洗濯させられる侍女から新しい服を着てほしいと苦情が出たとき、天下のため倹約するのだと逆に説教した。
    また、侍女から料理の漬物がしょっぱいという苦情が出たので料理人に問いただしたところ、今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからないと答えられ、笑ってそのままにした。
    侍が座敷で相撲をしている時に畳を裏返すように言った。
    駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、銅を3年で運上金千両回収した。
    装飾を施した便器に激怒し、直ちに壊させた。
    代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた。
    三河にいた時、夏に家康は麦飯を食べていた。
    ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った。
    厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした。
    家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった。
    蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康は人に知行を多く与えないので天下人にはなれないといった。
    この結果、家康は莫大な財を次代に残している。
    ただし『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。


    松平忠輝

    松平忠輝
    松平 忠輝(まつだいら ただてる)は安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。
    徳川家康の六男。
     
    生涯
    出生
    天正20年(1592年)1月4日、徳川家康の六男として江戸城で誕生した。
    幼名は辰千代(たつちよ)という。
    生年が辰年だったのが、その由来と言われる。
    家康は誕生したばかりの辰千代を生母の身分が低かったため、素直に喜ばず、捨て子のしきたり(当時は捨て子の方が強く丈夫に育つとされ、安育祈願として一度寺の門前に子供を捨て、通りがかった家臣に拾わせて自分に届けさせて育てるという風習があった)の際に家康の側近・本多正信に拾わせ養育先を探させて、下野栃木(長沼)城主で3万5000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなった。
    家康が忠輝と面会したのは、慶長3年(1598年)のことであるが、そのときも家康は忠輝を嫌ったと言われている。
     
    長沢松平氏
    慶長4年(1599年)1月、同母弟で家康の7男・松千代が早世したため、その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、武蔵深谷藩1万石を与えられた。
    慶長7年(1602年)に下総佐倉藩5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。
    慶長8年(1603年)2月、信濃川中島藩12万石に加増移封される(佐倉移封が前年12月であったため、わずか40日で2度の転封となる)。
    慶長10年(1605年)、家康の命令で大坂の豊臣秀頼と面会している。
    慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。
    しかし慶長14年(1609年)、重臣の皆川広照らによって御家騒動が起こり、それによって広照らは失脚している。
    慶長15年(1610年)、越後高田藩主(福島城主・後述)に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられた。
    忠輝は海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に茶道、絵画、薬学に通じた文化人で、キリスト教の洗礼を受けキリスト教を信仰していたともされている。
    越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城の城主であったが、慶長19年(1614年)に高田城を築城し、これに移った。
    高田城は幕府の命により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。
     
    改易・配流
    しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。
    剛毅な彼には不満が残る命令であったが結局これに従った。
    慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。
    しかし夏の陣で不手際があったことなどから、元和2年(1616年)7月6日、兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪とされた。
    元和4年(1618年)には飛騨国高山藩に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪藩に流された。
    そして天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。
    92歳。
    息子である徳松(母は竹の局)は放免の際に同行が許されず、更には岩槻藩主阿部重次の預かりとなったもののそこで冷遇され、寛永9年(1632年)に住居に火をつけて自殺している。
    (享年18) 徳川家康との仲は実は埋まっていたという説もある。
    それが野風の笛の逸話である。
    この笛は「織田信長〜豊臣秀吉〜徳川家康」と渡り歩いた物とされており、その天下人の象徴である笛を、家康は茶阿局を通して忠輝に渡したと言われている。
    現在、長野県諏訪市の貞松院に保存されている。
     
    赦免
    徳川家より赦免されたのは、死去から300年後の1984年になってからであった。
    忠輝の菩提寺である貞松院の住職・山田和雄が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家十八代目当主の徳川恒孝に願い出て実現した。
    1984年7月3日、徳川恒孝によって赦免され、仏前への奉告は貞松院の檀信徒の都合などで3年後の1987年10月24日に行われた。
    隆慶一郎作の小説、『捨て童子・松平忠輝』のヒットを赦免理由にあげる説があるが、本作が『信濃毎日新聞』等で連載が開始されたのは1987年5月22日からであり、赦免状が徳川恒孝によって出されたのはそれより先、1984年7月3日である。


    徳川義直
    徳川義直
    徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代前期の大名。
    尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。
     
    家系
    江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康の九男。
    母は家康の側室・相応院(亀)。
    幼名は五郎太丸(その以前には千々代丸という幼名であったらしい)。
    諱は義直(「義」の字は、徳川家が祖としている新田義貞から取ったものである)。
    正室は浅野幸長の娘・春姫。
    春姫との仲は良好だったが子供が産まれず、後に側室2名を迎えている。
    附家老の成瀬隼人正正虎は初代隼人正正成の長男、同じく附家老の竹腰山城守正信は義直の異父兄である。
    なお義直の墓は、愛知県瀬戸市定光寺町の應夢山定光寺にある。
    極位極官は従二位権大納言、諡号は源敬公。
    二品前亜相尾陽侯源敬公。
     
    生涯
    慶長5年(1600年)11月28日、徳川家康の九男として大坂城西の丸(京都伏見城とも)で産まれる。
    慶長8年(1603年)に甲府藩主となる。
    慶長12年(1607年)に兄の松平忠吉が死去したため、清洲藩主となるが、父・家康は中部地区及び東海道の要としての重要なこの地域を管轄すべく、名古屋に天下普請の城郭・名古屋城を築き本拠地と定めた。
    ただこのとき、義直自身は父と駿府城におり、父の死後の元和2年(1616年)、名古屋へ移り住んだ。
    なお、藩政は若年の義直に代わって、老臣の平岩親吉らが代行した。
    慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。
    翌年大坂夏の陣では後詰として活躍した(天王寺・岡山の戦い)。
    成長してからは藩政を自ら行ない、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行なって米の増産に務めた。
    そのほかにも検地による税制改革などで年貢収納を確立した。
    義直は学問を好んで儒教を奨励し、「孔子堂」の建立や城内の尾張東照宮の建築を進めた。
    歴史書「類聚日本紀」を著した。
    また、家康の形見分けで受け継いだ「駿河御譲り本」に自身で収集した書誌を合わせ蓬左文庫を創設し、「決して門外不出にすべからず」と現在の図書館の走りとなる文庫とした。
    日本武術も好み、柳生兵庫助から新陰流兵法の相伝も受けている。
    また、いつ襲われても対処できるようにするためか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差の位置を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足を動かして寝ていたとも言われている。
    慶安3年(1650年)、中風症で病臥していた義直は、江戸藩邸で死去した。
    享年51。
    後を子の徳川光友が継いだ。
     
    人物
    義直の最大の特徴は尊皇思想にあり、これは後々の尾張藩の行政に大きな影響を与えた。
    一方家康の実子としてプライドの高かった彼はたびたび甥の3代将軍徳川家光と衝突した。
    物事において筋目を重んじた義直は「生まれながらの将軍」を自負する家光には目の上の瘤であったと言える。
    寛永11年(1634年)、家光が病床に伏した際、義直は大軍を率いて江戸に向かい、家光や幕閣を慌てさせた。
    このとき彼は御三家筆頭として、当時継嗣のいなかった家光に万が一の事態が生じた場合、自ら将軍職を引き受けるという強い考えがあった。
    しかしこの出来事が尾を引いたのか、尾張家はついに将軍を出せぬまま終わっている。
    義直は、現代の名古屋及び東海地方の発展の基礎を築いた日本有数の名君であったといえる。
    柳生兵庫助より新陰流剣術を学び、利厳より流儀を継承して新陰流第4世宗家となった。
     
    官職位階履歴
    慶長8年(1603年)、甲斐国府中藩主25万石知行
    慶長9年1月5日(1604年)、正五位下
    慶長11年8月11日(1606年)、元服。
    義利を名乗る。
    従四位下右兵衛督。
    慶長12年閏4月26日(1607年)、尾張国清洲藩主53万石余に転封。
    慶長15年閏2月6日(1610年)、尾張国名古屋藩主53万石余に移封。
    慶長16年3月20日1611年)、従三位参議左近衛権中将。
    その後、年月不詳にて参議辞職。
    元和元年(1615年)、浅野幸長の娘春姫を正室に迎える。
    この頃、木曽福島と美濃国内に62万石加増。
    元和3年7月19日(1617年)、権中納言。
      7月20日、権中納言辞任。
    元和5年(1619年)、61万石余となる。
    元和7年6月18日(1621年)、名を義直と改める。
    寛永3年8月19日(1626年)、従二位権大納言
       

    徳川頼宣
    徳川頼宣
    徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、常陸国水戸藩、駿河国駿府藩、紀伊国和歌山藩の藩主を歴任して紀州徳川家の祖となる。
    母は側室の養珠院(万)である。
    八代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。
    幼名は長福丸、元服に伴い頼将、元和年中に頼信、さらに頼宣と改名する。
    初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。
     
    生涯
    1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。
    1603年(慶長8年)、若干2歳で常陸水戸藩20万石を与えられる。
    1606年(慶長11年)、家康に従い京都に上り元服。
    同年、駿河駿府藩50万石に転封され、駿府城に入って家康の許で育てられた。
    1617年2月27日(元和3年正月22日)に加藤清正の第五女・八十姫(瑤林院)を正室とする。
    1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。
    翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。
    1619年(元和5年)、紀伊国紀州藩55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。
    入国の前に、家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。
    入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。
    また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。
    また、浪人問題を解消すべく、多くの対策を打ち出した。
    1651年(慶安4年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため幕府に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。
    なおその時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。
    その後、疑いは晴れて無事帰国したが、和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名がある)。
    1667年(寛文7年)嫡男・光貞に跡を譲り隠居。
    覇気に富む人柄であったと伝えられている。
     
    官職位階履歴
    ※日付は明治5年12月2日までは旧暦
    1603年(慶長8年)11月7日 - 常陸国水戸藩主として常陸の大部分(20万石)を知行。
    1604年(慶長9年)9月 - 5万石を加増。
    1606年(慶長11年)8月11日 - 元服し、頼将を名乗る。
    従四位下常陸介に叙任、常陸国主(介=守)となる。
    1609年(慶長14年)12月12日 - 駿河・遠江両国50万石に転封。
    居城は駿河国駿府城。
    1611年(慶長16年)3月20日 - 従三位参議左近衛権中将に昇叙転任。
    その後、年月日不詳にて参議辞職。
    1617年(元和3年)
    7月19日 - 権中納言に転任。
    7月21日 - 権中納言辞任。
    1619年(元和5年)7月19日 - 紀伊国55万石余の藩主として転封。
    1626年(寛永3年)8月19日 - 従二位権大納言に昇叙転任。
    1667年(寛文7年)5月22日 - 隠居。
    1671年(寛文11年)1月10日 - 薨去----墓所:和歌山県海南市の慶徳山長保寺。
    1915年(大正4年)11月10日 - 贈正二位。

    逆援助
    徳川頼房
    徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、江戸時代の大名である。
    常陸水戸藩初代藩主、御三家の水戸徳川家の祖。
    徳川家康の11男、母は側室の万。
    継母は梶。
    正室は無し。
    幼名は鶴千代丸。
    梶の養子には他に、結城秀康男松平忠昌、池田輝政女振姫らがいる。
    諡号は、威公。
    顕孝正三位前中納言水戸府君源威公。
    儒学や神道を学んだ。
    享年59。
    墓所は茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山墓地。
    徳川宗家現当主18代徳川恒孝は、この頼房の血統である。
     
    年譜
    1603年(慶長8年)、伏見城にて生まれる。
    1606年(慶長11年)9月23日、若干3歳で常陸下妻を領し、次いで1609年(慶長14年)1月5日、実兄である徳川頼将(後の頼宣)の駿河転封により、常陸水戸を領した。
    しかし、頼房自身は幼少のため、駿府城の徳川家康の許で育てられた。
    元服後に水戸に入部して、頼将の分家扱いで家をおこす。
    1614年(慶長19年)、大坂の陣では駿府城を守備した。
    1626年(寛永3年)8月19日、頼房は従三位権中納言に昇叙転任したものの、水戸徳川家では不満があった。
    同日には、加賀藩主前田利常、薩摩藩主島津家久、陸奥仙台藩主伊達政宗も同様に従三位権中納言に昇叙転任したため、水戸徳川家は外様三藩と同列扱いにされた格好であった。
    そのため、幕府としても収拾するべく、翌年早々、正三位に昇叙することとなったのである。
    これによって水戸徳川家の極位極官は正三位権中納言の道筋が出来たのである。
    1636年(寛永13年)7月、徳川姓を賜わり、徳川頼房となる。
    1661年(寛文4年)に死去。
    跡を水戸黄門の名で有名な三男光圀が継いだ。
     
    官職位階履歴
    ※日付=旧暦
    1606年(慶長11年)9月23日、常陸国下妻10万石藩主
    1609年(慶長14年)1月5日、従四位下左衛門督。
    12月22日、常陸国水戸25万石に転封。
    1611年(慶長16年)3月20日、正四位下左近衛権少将。
    某月某日、元服。
    松平頼房を名乗る。
    1617年(元和3年)7月、左近衛権中将
    1620年(元和6年)8月21日、参議。
    左近衛権中将如元。
    1622年(元和8年)10月、3万石加増
    1626年(寛永3年)8月19日、従三位権中納言
    1627年(寛永4年)1月7日、正三位
    1636年(寛永13年)7月、徳川賜姓
     
    エピソード
    家康が公子らを引き連れ、目も眩むような高さの櫓から周囲の風景を愛でていたとき、家康が戯れに「誰かこの櫓から飛び降りるものはいないか。
    褒美に何でも好きなものを与えるぞ」 と言ったところ、頼房が「では私が飛び降りるのでお鶴に天下をください」と言った。
    家康が「天下を手に入れたとて、体がバラバラになってしまっては意味がないではないか」と尋ねると頼房は「たとえ一瞬でも天下を手に入れたことで私の名は歴史に残りましょう。
    体が砕けたとしても、私はそれで満足します」と言ったとされる。
    頼房は死ぬ前に世子光圀を通して家来たちの殉死を止めさせ、世間でも殉死が無くなれば良いと言い残した。
    その話は江戸でも有名になり、四代将軍家綱は頼房の死後殉死禁止令を出した。
    これによって頼房の遺言は守られた。
    逆援助orgは可能なのか。

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