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徳川家康
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    征夷大将軍
    関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。
    そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。
    「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は、神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。
    近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓を源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。
    後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。
    他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と述べている。
    なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。
    また、実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説とする説がある。
    慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。
    そしてここで六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。
    征夷大将軍への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満から始まった慣例である。
    3月21日、家康は二条城で将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。
    ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行われたのは3月27日であり、この日をもって正式に江戸幕府が開かれたと見てよい。
    豊臣政権の五大老であった家康が、秀吉の死から4年半で武家の棟梁としての地位を手に入れ、名実ともに豊臣氏を上回る地位を確立した。
    幕府開府に当たって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。
    朝廷を掌握すれば豊臣氏が形勢挽回する道はなく、天下統一の後において政権の安泰を図る上で重要であった。
      


    大御所政治

    大御所政治
    慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に三男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。
    同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿がこれを拒絶する。
    結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。
    慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。
    慶長16年(1611年)、二条城にて秀頼と会見したいと要望した。
    主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが、将軍・秀忠は秀頼の義父である関係からあくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し、加藤清正等の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。
    この会見により、天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である事」を示したとするのが一般的な見解であるが、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感することになったとの見解もある。


    大坂の陣
    大坂の陣
    最晩年を迎えていた家康にとって、豊臣氏は最大の脅威であり続けた。
    一大名の位置に転落したとは言え、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名はほとんど豊臣恩顧の大名であった。
    また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には、秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している。
    さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。
    将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は、未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。
    また将軍家でも秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。
    さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。
    もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。
    家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。
    家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているようにも見せかけていた。
    諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。
    また、(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。
    しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。
    さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備え、多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の戦いの敗残兵で家康に恨みを持つ者たちであった。
    そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった(あまりにも豊臣恩顧の大名の死が相次いだため、家康による毒殺説もある)。
    そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。
       

    方広寺鐘銘事件
    方広寺鐘銘事件
    豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。
    ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文中に不吉な語があると供養を差し止めた。
    問題とされたのは「国家安康」・「君臣豊楽・子孫殷昌」・「右僕射源朝臣」の部分であった。
    「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとした。
    更に「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したのである。
    こちらは完全な言いがかりであり、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。
    さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。
    これに対して豊臣氏は家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康に弁明を試みた。
    ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。
    且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。
    そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。
    この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。
    しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しており、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している[7]。
    当時、基本的に諱で呼ぶ事が出来るのは両親、主君そして敵であり、通常は名字+官職名もしくは通名等で呼び諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった事を考えると、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為が付け入る隙を与えたという性格の方が強い。
    その後も鐘は鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。

    人妻
    大坂冬の陣
    慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。
    そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うにとどめた。
    徳川軍は木津川口の戦い・今福の戦い・鴫野の戦い・博労淵の戦いなどの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは、真田信繁(幸村)の前に大敗を喫した。
    とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。
    午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。
    この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。
    和議の条件は、大坂城の外堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破壊であったが、家康は本多正純に命じて条件になかった内堀までも埋め立てさせ、慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。
     
    大坂夏の陣
    和睦の条件になかった内堀まで埋め立てられたため、豊臣氏はこれを掘り返そうとした。
    ところが家康は、それを「豊臣氏が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。
    更に徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣氏に要求が拒否されるや侵攻を開始した。
    これに対して豊臣氏は、大坂城からの出撃策をとったが兵力で圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう。
    徳川軍は大軍ゆえの油断や連携の拙さ、真田信繁や毛利勝永らの奮闘もあって、一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁は戦死、勝永は豊臣秀頼を守る為に退却し遂に大坂城は落城した。
    5月8日、秀頼と淀殿、そしてその側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害し、ここに豊臣氏は滅亡した。
    「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあり、山岡荘八の小説『徳川家康』ではこの説をとっている。
    しかしこれは、主筋であった豊臣氏を滅ぼしたことへの非難を避けるための後世の創作であるという説もある。
    その後大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。
    明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。
    人妻netから祀られた。

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