徳川家康

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    徳川家康

    徳川家康
    徳川 家康(とくがわ いえやす)は、日本の戦国武将・江戸幕府の初代征夷大将軍。
    徳川氏の祖。
    本姓は当初藤原氏、次いで源氏と名乗った。
    家系は三河国の国人土豪・松平氏。
    永禄9年12月29日に勅許を得て徳川氏に改姓。
    通称は次郎三郎。
    幼名は竹千代。
    応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を更に磐石のものとし、264年間続いた江戸幕府を開府し、その礎を築いた。
    日光東照宮・久能山東照宮などで「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)として祀られている。
    戦国時代に、三河国・岡崎に岡崎城主・松平広忠の子として出生。
    幼名は竹千代。
    当時の松平氏は弱小であり、広忠は臣従していた今川氏に竹千代を人質として差し出す事となった。
    一時、家臣の裏切りにより織田氏の人質となるが、最終的には当初の予定通り今川氏に送られた。
    今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦いにおいて今川義元が討たれた後、今川氏の混乱に乗じて独立し、織田信長の盟友(事実上は客将)として版図を広げていく事となる。
    やがて、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。
    豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て豊臣氏に臣従。
    秀吉の元で、家康は最大の領地を得る事となり、豊臣政権の五大老筆頭となる。
    秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し、天皇から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開いた。
    死後、江戸時代を通じて、御家人・旗本には「神君」、「東照宮」、一般には「権現(様)」(ごんげん-さま)と呼ばれた。


    幼少期から初陣

    略歴
    ※ 日付は、太陰暦による和暦。
    西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。
    幼少期から初陣
    三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前4時ごろ)、岡崎城 で生まれる。
    母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。
    幼名は竹千代(たけちよ)。
    2歳の時、水野忠政の没後水野氏の当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。
    そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。
    6歳の時、広忠は織田氏に対抗するため、駿河国の今川氏に臣従し、竹千代は今川氏の人質として駿河国・駿府へ送られることとなった。
    しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。
    しかし広忠は今川氏への臣従を貫いたため、竹千代は見捨てられた形となり、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。
    織田信長とはこの頃知り合った。
    2年後に広忠は死去した。
    今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(前年の1549年、安祥城を 太原雪斎に城を攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。
    しかし竹千代は駿府(『東照宮御実紀』では少将宮町、武徳編年集成』では宮カ崎とされている)に移され、岡崎城は今川氏より派遣された城代により支配された。
    墓参りのためと称し岡崎城に帰参した際には、本丸は今川氏の城代が置かれていたため本丸には入れず、二の丸に入った。
    この時、鳥居忠吉から松平氏の御家人が今川氏の先鋒、事実上の捨石とされている事情を聞く。
    また鳥居忠吉が今川氏に内密で備蓄していた武具・兵糧・金銭を見せられ、家康は感涙したという。
    古老の御家人は、祖父・松平清康によく似ていると感嘆したという。
    駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。
    名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。
    永禄元年(1558年)には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。
    従来、松平広忠の嫡男である竹千代を人質に取った処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説であった。
    しかし近年、むしろ今川義元の好意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説が唱えられている。
    人質というよりも「政務見習い」として預けられたという説もあり、実際にも、太原雪斎の英才教育 を受けさせたとの説もある(事実でないとの異論あり)。
    姪である築山殿を嫁がせているのも、政略的な一面がある一方、一門として迎え入れる厚遇という見方もある。
    ただし松平氏の家臣にとっては上述の通り主君を人質に取られて走狗として酷使された印象を与え、竹千代が今川義元の家臣(孕石元泰)から個人的な虐めを受けるなど、忍従の日々であり、後述の通り今川義元死後に築山殿とも不和になり殺害している事から、その松平氏の主観が後世に伝わり従来の通説となった。
      

    清洲同盟から三河国・遠江国平定
    清洲同盟から三河国・遠江国平定
    永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で、前線の尾張国・大高城を攻略中であった元康は、大高城から撤退。
    今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。
    藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。
    永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父水野信元の仲介もあって義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。
    翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。
    西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも苦心の末にこれを鎮圧した。
    こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。
    東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。
    三河国への対応に遅れる今川氏との間で、宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。
    この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。
    この改姓に伴い、新田氏系統の清和源氏であることも公認させた。
    永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結んだ。
    同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とした。
    遠江国で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れた氏真を匿う掛川城を攻囲。
    籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下においた。
    永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。
    後年、義昭は天下の実権をめぐり信長との間に対立を深め、信長包囲網を形成した際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。
    しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。
    元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移るとここを浜松と改名し、浜松城を築きこれを本城とした。
       

    武田氏との戦い
    武田氏との戦い
    今川領分割に際して、大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んで、武田信玄とは友好関係を築いていた。
    しかし永禄11年(1569年)、信玄からは一方的に協定を破棄された上、信濃国から秋山信友に遠江国への侵攻を受けてしまう。
    徳川軍は北条氏康の協力を得て武田軍を退けたが、これを機に信玄と家康は敵対関係となった。
    元亀3年(1572年)10月、信玄はついに上洛を開始し、徳川領である遠江国、三河国に侵攻してきた。
    これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃国・岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。
    遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附にまで進出。
    二俣城を取られることを避けたい家康が、ひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。
    遠江国方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河国方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。
    そして12月、浜松の北方を固める遠江国の要衝であった二俣城が落城した(二俣城の戦い)。
    そのような中で、ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきた。
    その間、別働隊との合流も果たし、浜松城へ近付く武田軍であったが、長期戦を嫌う信玄は浜松城を悠然と素通りして、三河国に侵攻するかのように転進した。
    これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。
    しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど徳川・織田連合軍は惨敗した。
    夏目吉信に代表される身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も、馬上で脱糞したとさえ言われている。
    このとき、浜松城まで追撃された家康は「空城計」を用いた。
    この計によって城の様子を怪しんだ武田軍は城内侵攻をためらい、撤退を決断したとされている。
    なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせたものと伝えられる(三方ヶ原の戦い)。
    浜名湖北岸で越年したのち三河国への進軍を再開した武田軍によって、三河国設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。
    ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の回復を待ち西上作戦の継続を望むも快方に向かわぬ容態のため作戦を断念し甲斐国へ帰還した。
    なお、信玄は帰還途中の信濃国で死去した。
    武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。
    その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。
    そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。
    奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。

    出会い系
    天正2年(1574年)5月、信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍が、遠江国の高天神城へ侵攻した。
    これに対して家康は単独で迎撃せず、信長に援軍を要請したが、援軍の到着前に高天神城を失った。
    天正3年(1575年)5月には、勝頼が率いる1万5,000人の大軍に三河国の長篠城を攻められた。
    これに対して長篠城主・奥平貞昌が率いる僅か500人の将兵は善戦。
    籠城軍の耐え抜きによって救援に間に合った織田・徳川連合軍は、設楽原での後詰決戦において武田軍に大勝。
    この戦いで山県昌景、馬場信春を初めとする多くの武将を討ち果たして、武田軍を壊滅させた徳川氏は、武田氏との優劣を逆転させた(長篠の戦い)。
    なお、奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として家康は、名刀・大般若長光を授けて賞した。
    その上、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。
    なおこの年、家康は武田氏に奪われていた二俣城を奪還した。
    天正7年(1579年)、信長から、正室・築山殿と嫡男・松平信康に対し、武田氏への内通疑惑がかけられた。
    家康は抗弁の使者を立てたが、信長からの要求は、信康の切腹であった。
    家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室を殺害し、嫡男に切腹させた。
    この事件は信長が自身の嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたため等、諸説あるが、近年では家康・信康父子が対立したためで、信長には了承を求めただけ(信康の正室が信長の娘であるため)、という説も強くなってきている。
    天正9年(1581年)3月23日、武田氏によって奪われていた高天神城を奪回した。
    天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿である木曾義昌が織田氏に寝返ったことを機に、信長は武田氏領国へ侵攻を開始する。
    家康は織田軍に協力し、駿河口から武田領に向かって侵攻した。
    これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力がなく、木曽口から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。
    徳川軍も駿河国に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには武田勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって離反させるなどして駿河国を占領した。
    これに対して勝頼に対抗する力はなく、最後は小山田信茂にまで裏切られ、3月11日に勝頼は甲斐国東部の天目山・田野において自刃、武田氏は滅亡した(武田征伐)。
    家康はこの戦功により、信長から駿河国を与えられた。
    この出会いで人生観が変わった。

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