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徳川家康
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    家康と宗教
    戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗は第十一世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺(真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺(浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。
    定説として、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたとされてきたが、近年になって真宗大谷派が「教如は家康にそそのかされて東本願寺を設立したのではなく、元々独立志向があった」とする見解を史学研究の結果として正式に表明しており、本願寺の東西分裂が通説のような家康の策謀によるものであったか否かは断定できない。
    しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。
    そしてこの本願寺の東西分裂によって東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力としての形を変えていった。
    かつて、信長は本願寺と交戦しその後和睦したが、実質的には長年猛威を振るってきた本願寺の権威を失墜させるなどの弱体化に成功し、秀吉は逆にこれを懐柔しようとしたが、家康の場合はその関与の度合いは不明とは言え、結果的に本願寺を内部分裂させ、彼らの自滅を誘う形でその勢力を更に弱めており、この事も家康の老獪さを表す事象として捉えられることがある。
    ただし、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。
    だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。
    彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。
    また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受ける事を容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視した。
    その為、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥を対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。
    家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬ事を理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。
    これら新興の宗教以外の古い天台宗・真言宗・法相宗にも独占した門跡を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗の知恩院を門跡に加え、更に天台宗・真言宗の頂点として輪王寺に門跡を設けて天台座主の座を独占した。
    これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持ち、後の幕府による寺請制度等により幕府は宗教を完全に公儀の下に置くことに成功している。
    これについてはそれぞれの立場(権力・宗教)によって、正反対の評価が下されるであろう。


    近現代における評価

    近現代における評価
    明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府が江戸幕府を倒して建てられた政権であり、江戸幕府を悪とするのが明治政府にとって都合が良いことであったからと言える。
    特に太平洋戦争前は、秀吉の朝鮮出兵が大日本帝国における、帝国主義的な領土拡大と合致し、「朝鮮征伐」と称されるほど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と偏った評価をされることが多かった。
    この時期は家康らの尊敬の対象であった平将門や足利尊氏に対しても朝廷に刃向かった逆賊として批判的な評価がなされていた時期である(尊氏に対しては家康も批判的だったとする説もある)。
    山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。
    この小説によって家康への再評価が始まり、それは現在も続いている。
    そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。
    一方、司馬遼太郎は家康について記した小説『覇王の家』あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である(但し、家康自身に対しては必ずしも否定的でない)。
    天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。
    家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない(部下の使い方がうまいという見方もある)、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。
    武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。
      

    逸話
    逸話
    家康公遺訓
    「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし… 怒りは敵とおもへ」で有名な家康公の「御遺訓」は、明治時代に元500石取りの幕臣、池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる「人のいましめ」を元に家康63歳の自筆花押文書との体裁にしたものを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めたものであることを尾張徳川家の徳川義宣が考証した。
    また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。
    これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間の滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。
    江戸時代は禁書であった。
    一説には偽書とされている。
    健康オタク
    家康は現在でいう健康オタクであり、当時としては極めて長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。
    元々凝り性だった家康は食事のつりあい、消化のよさなどを考えて台所に献立を通達していたと言われている。
    その食事は質素で、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩さなかった。
    死因となったともいわれた鯛の天ぷらは、生涯の最初で最後の贅沢であった(さらに言えば、鯛の天ぷらは当時の常識で言えば漁師や町人などが食べるものであり、必ずしも贅沢すぎるものではなかった)。
    生薬にも精通し、その知識は専門家が舌を巻くほどのもので一説には自分で調合していたとも、孫の家光の大病を治したとも言われるほどである。
    逆にしばしば水銀など劇薬まがいの薬剤を利用して強過ぎる薬を調合し、常備薬のように服用したため、専門家から諌言されていたとも言われる(なお、当時水銀は梅毒の治療薬に用いられていたため、家康が梅毒であったと推測できる)。
    ちなみに、精力剤である海狗腎は家康の薬の調合に使用されたという記録が残っている。
    関ヶ原合戦では、家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させている。
    趣味の一つとされる鷹狩りに関して、司馬遼太郎は「運動が健康にいい事を知った日本で初めての人物かも知れない」と『覇王の家』の中で述べている。
    新しいもの好き
    実は、南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった家康。
    裏がつるつるで滑りやすかった南蛮渡来のくつの裏に日本のわらじからヒントを得て滑り止めの溝を彫らせ滑りにくくしたという挿話もある。
       

    武術の達人
    武術の達人
    剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。
    剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流(『奥平家譜』、直心影流伝書による。
    なお『急賀斎由緒書』では奥山流)剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に姉川の戦いから7年間師事、文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩(柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退)を召抱える、など、生涯かけて学んでいた。
    ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
    水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露している。
    馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流馬術を学んでいる。
    また、力も強く、70歳の時に総長4尺7寸(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としている。
    多趣味
    歴史小説等で鷹狩りと薬づくり以外無趣味とされることが多い家康であるが、実はそれ以外にもたくさん趣味があった。
    猿楽(現在の名称は能)は、若い頃から世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、『風姿花伝』で学び故実にも通じていた。
    なお、家康は武士的な気概や人情味のある猿楽が好きであったが家臣が茶の湯(現茶道)等に凝るのを好まなかった。
    また、香(特に伽羅)を好み、海外まで使いを出している。
    囲碁も本因坊算砂に師事、特に浅野長政とはよい碁敵だった。
    自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、彼は囲碁殿堂に顕彰されている。
    当時武士の間では普通だった衆道にはあまり興味がなかったが、後に徳川四天王に数えられる小姓井伊万千代(井伊直政)は衆道に無関心だった家康が唯一愛した男性であるといわれる。
    身長
    家康の身長は推定156cmから160cmと言われている。
    晩年は肥満傾向にあり、胴回りは120cmと推測されている。
    駿府で大御所時代の家康に謁見したルソン総督ドン・ロドリゴは、著作の「日本航海記」で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。

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    師・武田信玄
    武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。
    天正10年(1582年)に武田家を滅亡させた後、織田信長に武田残党狩りを命じられた際も、信長の命令を無視し武田の遺臣をかくまった。
    自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
    有名な井伊直政の赤備えも、武田の猛将山県昌景にあやかったものである。
    それとは反し、幼馴染であり盟友であった織田信長に対しては反応が鈍く、政策に信長を手本にしたようなものは少ない。
    晩年人質的な存在であった今川時代も含め、昔話を好んで家臣に聞かせた家康だが、信長に関する感想はほとんど語らなかったと言われている(一説には恨んでいたとも言われる)。
    一富士二鷹三茄子
    初夢で見ると縁起がいいものと言われる 富士山・鷹・茄子は、一説には家康の好きなものを列挙したと言われる。
    晩年、駿府に隠居城を構えたのは富士山の眺めがいいから。
    鷹は趣味が鷹狩りであること。
    茄子は家康の無類の好物で、「天下を獲った男の愛する品」にあやかろうというものである。
    家臣と家康
    多くの有能な家臣に恵まれた家康は率直な物言いをする者を好んで重用した。
    時につかみ合いの喧嘩をし、罵りあった事もあると言う。
    家康が尊敬していた人物
    家康は、高祖、張良、韓信、太公望、文王、周公、源頼朝、足利尊氏などの人物を尊敬していたと伝えられている。
    信長のように時として大将自らが前線に動くタイプよりも、家臣に実務の殆どを委任するタイプの人物を尊敬する傾向にあったようで、秀吉の死後、薩摩の島津義久(剃髪して龍伯と号していた)と会談した時にも彼の事を源頼朝に喩えて「大将の鑑だ」と賞賛した、という逸話もある。
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