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徳川家康
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    最晩年
    元和元年(1615年)、家康は禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係の構築と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにした。
    また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。
    こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下を安泰なものとした。
    元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。
    3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。
    4月17日の巳の刻(午前10時ごろ)に駿府城において死去した。
    享年75。
    死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説が有力であった。
    しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。
    諸症状から見て胃癌か梅毒と考えられている。
    なお、家康が問題の天ぷらを食べたのは田中城(現静岡県藤枝市田中)であった。
    辞世の句として『東照宮御実記』に以下の二首を詠んだと伝わっている。
    「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
    「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
    江戸城内においては天ぷらを料理することは禁止されていた。
    これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされる場合もあるが、実際には、大奥の侍女のひとりが天ぷらを料理していて、火事を出しかけたために禁止されたというのが事実である。


    祭祀

    祭祀
    家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。
    神号は側近の天海と崇伝の間で、権現と明神の何れとするかが争われたが天海が勝ち、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされ、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。
    東照社は正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。
    現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺、高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。
    なお、徳川将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる。
     
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    その戦上手は「海道一の弓取」と称され、江戸時代には家康は「神君家康公」と呼ばれ、公然と彼を批判対象とした評論を発表すれば処罰の対象となった。
    逆に明治から太平洋戦争後までは、朝廷を抑圧した「奸臣」として、賞賛することは慮られるようになった。
    戦後になって比較的自由な家康批評が行われるようになった。
      

    江戸幕府の支配に関して
    江戸幕府の支配に関して
    家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。
    江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして天皇家までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。
    これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっている。
    これは朝廷や天皇家でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。
    幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を与えることを許さなかった。
    このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させ、全国の諸大名・朝廷・天皇家を「生かさず殺さず。
    逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが家康の築いた江戸幕府であった。
    このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、これほどまでの強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ世界史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実である。
    そのため、この江戸幕府の礎を築き上げた家康の手腕は今なお高く評価されている。
    また、この統治基盤が有ったからこそ、明治新政府へ移行が速やかに進められたとも言われる。
    後の鎖国政策につながるような閉鎖的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたと評価できる。
    なお、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、彼に対する非難としては的を外している、また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。
    徳川将軍家を絶対君主とする、全国の諸大名をはじめ寺社勢力、朝廷そして天皇家までも実質支配下に置き、さらには外交面でも閉鎖的な徹底した中央集権的封建支配体制を築き上げたことは日本の近代化を遅れさせる一因となったという非難の声もある。
    また、これに関連して「生かさず殺さず」の姿勢で百姓を支配しようとした事やキリシタンに対する厳しい弾圧への批判も多い。
    家康は信長以上に朝廷をないがしろにしたと言われ[要出典]、実際彼は朝廷を事実上支配下においていた。
    慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。
    大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。
    さらに関ヶ原の戦いの後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇に譲位を要求した。
    そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。
    家康は信長でさえ行なわなかった天皇の廃立を行ない、さらに後水尾天皇を自らの主導で即位させたのをいいことに、家康存命中から秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として天皇家まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。
    和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。
       

    一族・譜代の取り扱いに関して
    一族・譜代の取り扱いに関して
    家康は息子である結城秀康、松平忠輝や創業時の功臣に冷たく当たったなどと言われるが、功臣や秀康に対し、所領の面では十分報いており、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせ、秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせるなど、一定の配慮は示している。
    忠輝に対しても、改易前には御三家並の所領が与えられていた(越後国・高田55万石)。
    大久保長安事件(あるいは本多正信との政争)で改易された大久保氏も大久保忠隣の孫・大久保忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている(ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない)。
    更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。
    次男・秀康や六男・忠輝らを、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされている。
    (領地を与えたのは自分の息子であるという形式上の対応に過ぎず、秀康も忠輝も家康に終生疎まれたという)。
    また、長男・信康の切腹に関しても、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。
    さらには、徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から隔離し、この2人に匹敵するほどの武功派であった大久保忠隣を大久保長安事件で改易・失脚させている。
    大久保長安事件の折には、すでに大久保長安は死去して埋葬されていたが、家康は長安の半ば腐敗した遺体を掘り起こして斬首し、さらにその首を安倍川の川原で晒し首にしている。
    これらの事から、息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとの評価もある。
    とはいえ、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。
    『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。
    勇功を顕したり」と記されている。

    セフレ
    家康と同時代の人々
    家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。
    また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された「吾妻鏡」を愛読していた。
    その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やす事もなかった。
    とはいえ、後述のように信長に対しては複雑な感情を持っていたようであり、また秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことからその影響力が窺い知れる。
    そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。
    とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。
    偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するともいえる。
    家康の仇名として「狸親父」というものがある。
    江戸時代の歌舞伎作品において、家康を暗喩する悪玉の名前として用いられたものである。
    明治以降は公然と家康の渾名として用いられるようになった。
    これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に卑劣な人物であったという印象も与えるものであり、近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。
    家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが、短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原の序盤戦で東軍が不利だったとき、門奈長三郎という小姓の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。
    さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。
    古記録にも「公(徳川家康)、おほいに気をいらだちたまひ、左の御指の爪を食ひ切る。
    血しぶき噛みたまふように見えさせたまふ」とある。
    情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、本多忠勝の決死の嘆願で真田昌幸を助命するなど、感情に流されるケースもある。
    特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、吉信、鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、これは松平家全体にもいえることでありまた一揆を起こされたことも考慮する必要がある。
    無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人・ウィリアム・アダムス(武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。
    セフレbizは賛否両論である。

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